桜、4月8日、調布市。
何かしないと、外に出ないと、何か記録になるものを……
なぜかこの時期はそういう考えに行きがちだ。そして、つっかえる。
さらっと空白を感じる余裕を忘れないようにしよう。
空白があってこそ、ひとつひとつのおこないがしっかりとしたスナップショットになるはず。
イメージするのは、
マドレーヌ島や流氷の上での自分。
マドレーヌ島でアザラシたちを頭に浮かべながらご飯たべたり、
流氷の上で頭を真っ白にしたり…
そんな体験から、空白を感じるためのアンテナが自分の中に少しずつできてきた。
タテゴトアザラシ、2007年3月5日。
お母さんもぐるんっと一回転。
* * * * *
いい空白はだらだらではない。
でも、だらだら、でもいい空白として感じることもある。
いい空白って何か。
自分の体感ではわかるけれど、その説明がいまいちうまくできない。
「自分が何か創造している時間であること」が「いい」の条件じゃないかとか、
「能動的に何かをしている(受け身ではない)こと」が「いい」の条件じゃないかとか、
そんなふうに思っていた時もあったけれど、そのままアタリといえるほどのものではなかった。
今いえるのは、
快楽ごっこ、
だらだらごっこ、
楽しそうな人のまねっこ、
ではない
ということくらい。
「癒し」という言葉が大嫌い。
「癒されたいね~」という行動も大嫌い。
「ハムスターは癒しですか」「アザラシは癒しですか」
しょっちゅう言われるけど、そうじゃない。
結果として癒しの効果はあきらかにあるけれど、
癒されたいという意識から私の行動は生まれていない。
あーそっか。
依存と刺激の違いかもしれない。
ほとんどすべてを対象に依存する関係なのか、
刺激だけちょうだいねという関係なのかで分けられそう。
いい空白とは、刺激をもらうだけの空白???
また難しい話になってきたなぁ。
体じゃわかるのに論理的に展開していくのは本当に難しい、空白。